ヒトの進化の順序は、化石人骨や考古学的検討から直立二足歩行から始まり、手を使った石器造り、狩猟や火の使用、言語の使用、細石器の製作・使用、芸術的製作、文字の使用など次第に高度な文化を作り上げてきた。そしてこの能力の向上が、脳の容積の拡大や脳内の領域の増大によっていることは間違いない。
ここでは、道具の使用や言語の獲得などと脳の発達を検討してみる。
1. 頭骨の変化
図1は、比較のための現在のチンパンジーおよびAuアナメンシスからホモ・サピエンスに到る脳容量の変化、頭骨の前面・横の形状を示した。但し各種の頭骨の発達の違いを強調されるように、眼窩の幅が同一になるように前面、横の形状を表示した(眼窩の幅で規格化した状態とした)。また頭骨の上下の基準線として眼窩の中心位置を用いた。また図の中央の顔面に引いた上の線は眼窩上隆起の上の位置を示した線である。また最下段の頭骨の側面を示した図には、頭骨の高さを示した線を示している。また各頭骨はその種を代表している頭骨とは言えないが、矢印によって前の種からの大凡の変化の傾向を示した。
図から各進化段階の特徴は、次のように言える。脳容量が次第に大きくなっていることから、脳の拡大が起こっていることは間違いないとして、(1)チンパンジーからAu種属への時点では、脳の高さと頭頂部付近の拡大、(2)Au種属からHハビリス段階では一層の脳の高さと頭頂部付近の拡大および後頭部の拡大が起きている。(3)HハビリスからHエレクトスでは、後頭部の拡大がおきているが、頭頂部付近の増加はほとんどない。(4)Hハイデルベルゲンシスの段階では、頭頂部付近の増加はほとんどなく、前頭部の拡大が起こっている。(5)Hサピエンスでは、高さを含む頭部全体の拡大が起こっているが、特に前頭部の一層の拡大、上部後頭部、下部側頭部の拡大が著しい(ネアンデルタール人の場合にも同じことが言えることをAサンタ・ルカが述べている)(1))。
2. 脳内部の変化の推定
(1) Au アナメンシスの段階
チンパンジーからAu種属での進化は、直立二足歩行である。図1のAu種属の頭骨の変化は、二足歩行に伴う脳の進化を表しているのであろう。最近の研究によれば、二足歩行に伴う脳の神経経路については、歩行を行うアイデアが補足運動野を通じて大脳基底核や小脳外側部を通り運動野に伝達され、運動を起こすことが知られている。JCエックルスは、“Auアフリカヌスは石器の製作は行ってはいなかったと思われるが、骨や角,木などを使っていたであろう”と手の使用をしていたと想像している研究例を紹介している2)。そして手の親指の回転や手の骨の化石からは石器を作れる程度までにはなっていたが、脳が石器を作るまでは発達していなかったと推定している。
図2は、脳の運動に関する領域を示したホムンクルス図である。Au種属では、手の動きが不十分であったとすれば、脳の拡大や頭骨高さの拡大は、脳の足の部分に関した領域が拡大したと推定できよう。
(2) Hハビリスの段階
Hハビリスになって粗製石器が作られ始めた。どのような粗製の石器であっても、どのような石器を作るかという想像的見通しが必要となる。そしてAu種属は、この能力を限られてはいるが持っていたらしい(2))。
この石器の製作は、Hハビリス、Hエレクトス、Hサピエンスと多様性と優美性を深めながら進歩してきたが、手・指に関する脳、特に運動前野や運動野の拡大が寄与したと推定される。
(3) HハビリスからHエレクトスの段階
HハビリスからHエレクトスの段階では、叫声のような原始言語を使っていたのではないかといわれる。この理由としては、言語に関する後言語野(ウィルニッケ)の発達が起こっており、Hエレクトスでは言語をコントロールする前言語野(ブローカ)の痕跡がみられるが(3))、言語を発する声帯の位置が現生人類よりも低く複雑な文節語を発生するのが難しいとされている(1))。そして複雑な言語を発生させる補助的な口や舌を動かす運動野の発達も著しくないために、頭頂部の高さはあまり変化がなく、むしろこの後言語野の発達が頭骨を後方に押し出した要因であろう。
(4) HハイデルベルゲンシスからHサピエンスの段階
この段階の最も重要な変化は、前頭部の膨らみによって眼窩上隆起が次第に目立たなくなっていることである。脳の部分で言えば、前頭葉が発達してきていることである。渡邉氏は、(前頭葉は)「視覚前野、側頭連合野、頭頂連合野などの高次処理された情報や大脳辺縁系である視床、帯状回や海馬、扁桃核、さらには視床下部、尾状核などと相互につながっている。また前頭連合野は、運動前野、補足運動野、さらには大脳基底核にもつながっている。
前頭連合野内の外側部は後連合野からの高次処理情報と、また眼窩部や内側部は大脳辺縁系と結びついている。このため外側部は認知機能と眼窩部や内側部は情動、動機付け機能により強くかかわっている」(4))と述べている。
この前頭葉の容積は、チンパンジーでは脳の17%を占めているが、現生人類では29%を占めていることから、Hハイデルベルゲンシスではこの中間の値にまで前頭葉が発達してきていることが予想される。しかしHサピエンスと比較して側頭部、頭頂部や側頭部下部の膨らみが見られないことから、HサピエンスほどではないがHエレクトスと比較して、恐らくより精巧な石器の製作に必要な見通し機能やそれを実現する運動野や運動前野、声帯の位置の変化に伴う原始言語の進歩(ブローカ領域の発達)があったと推測されている。
(5) Hサピエンス・サピエンスの段階
Hサピエンス・サピエンスでは、Hハイデルベルゲンシスの段階での前頭葉の一部の進化から、現生人類が持つ前頭葉の全機能が進化したと思われる。頭骨で見る限り前頭部の一層の拡大、頭高、側頭部、頭頂部、後頭部、下部側頭部の拡大など全ての部分での発達が見られる。脳の内部では、思考や創造力を司る前頭葉の発達、記憶や言語に関する側頭葉の発達などが関係していると想像できる。この側頭葉は、各感覚からの情報や記憶を整理し一時記憶する海馬や本能的感情と身体反応を行う扁桃体を持つ大脳辺縁系につながり、さらにこの大脳辺縁系からは、前頭葉へ情報が送られる。前頭葉は、これらの情報を基に各種の身体や思考への反応を行っている。
Hサピエンス・サピエンスの進化の中心は、従来から言われているように、主として前頭葉と大脳辺縁系の進化によっていると思われる。
1)石田肇:「ネアンデルタール人の正体」第6章「化石は語る」朝日新聞出版(2005)170、270-271
Santa Luca, AP:J. Human Evolution,7,(1978)619-
2)JCエックルス著、伊藤正男訳:「脳の進化」、東京大学出版会、(1990)60-
3)栗本慎一郎、養老孟司、沢口俊之、立川健二:「脳、心、言葉」光文社、(1995)25